三連休、本当に何もせずに過ごしてしまった。
ありがたいような、もったいないような。
何かをしていた方が、充実したのではないかというような気持ちになってしまう。
何かをしないと、無駄になってしまったのではないかというような。
そもそも、のんびり何もせずに過ごしたっていい。
誰にも責められやしない。
けれど、何もしないということがダメという気持ちになる。
バカンスでリゾート地に行ってのんびりするという目的があったり、
病気になって寝て体を休めないといけなかったり、
半ば、強制的にゆっくりするという事態になると、
ゆっくりするしかない、と降参する。
けれど、何か行動できるのにのんびり何もしないを選択すると、
できるのにやっていない・・・とダメ出しが始まってしまう。
感覚で言うと、大晦日の日に夜中まで起きていないともったいない、
遅くまで起きていることを許されているのに、
早く寝てしまうなんてもったいない・・・
そんな感覚である。
のんびりすること、ゆっくりすることは「時間の無駄」というような。
そんな感覚になってしまっているのだ。
理由や目的がないと時間をうまくつかえないと思っている。
そういう人が多いのではないだろうか。
理由や目的がなくたって、それがイコール無駄にはならない。
ゆっくりしてはいけない!価値観に侵されている・・・。
やっぱり、我慢はよくないと近所のカフェで自分の時間を1時間半程とってみた。
夫に、子どもたちを任せて。
夫は、快く私を見送ってくれて、
子どもたちも晩御飯を作ってくれて、
一人でカフェタイムをとっていた私をご機嫌に出迎えてくれた。
私は、自分の機嫌をとるためにカフェでくつろいでいただけなのに、
その間に美味しいご飯が出来ていて、
帰宅すると子どもたちもご飯を作るのが楽しかったようで、
豚の生姜焼きは僕が作った、
玉ねぎとピーマンを切ったのは僕、
生姜をすりおろしたのは僕だ、と得意げにおかずを勧めてくれて、
誰一人、私がのんびり過ごしていたことを咎めない。
のんびりしたって、ゆっくりしたっていいんだよ、
と言ってくれる。
夫はいつも優しい。
何もしないことをダメ出ししているのは、
誰でもない、私自身なのだ。
「こういうことをしないと価値がない」
と思っているのだ。
自分に対して、そのままでいいんだよ、ありのままでいいんだよ
というのを認められていないから、
「何か」をしないと、自分そのままではダメだと思っている。
そんなことはない。
どんな自分も素敵、どんな自分でも愛しい。
何かをしたって、しなくったって、いい。
そういうとても大切なことを、家族は教えてくれるのだ。
自分を愛するって、そういうこと。