お節介なハハ

新しい仕事を始めて一か月。
しばらくカフェで過ごすということをしていなかった間に、すっかりカフェがクリスマス仕様になっていた。

ディスプレイだけではなくて、カップもクリスマス仕様。
そして、メニューまでもすっかりクリスマスになっていて、私はすっかりハロウィンに取り残されたままだ。
(いや、これは語弊のある言い方だけど、カフェのハロウィンメニューが美味しくて好きだったのだ)

長男の話を少し。

長男がこの週末は部活三昧で、試合の送迎に忙しかったのでその合間に予定を詰め込んだ。
折角予定を空けていたのに、試合の結果は表彰台にすら届かず・・・。
何というか、私的にはガッカリだった。

長男は、試合前からの目標として「部活内でトップになれればいい」と言っていた。
その目標は達成できたのだけれど、個人的には「目標が低すぎやしないか」と思ってしまうのだ。

彼の星は、算命学の陽占では南が鳳閣星なので「楽しかったらいい」という気持ちはもう十分に星を活かしているとは思うのだけれど、どうせやるなら上を目指してやった方がいいんじゃないかという私の気持ちが乗ってくる。

彼は、試合で何としてでも勝ちたい!とか、何が何でも上手くなりたい!みたいな気持ちは多分見ている限りない。

プライドは高いだろうに、何故か自主練もしない。
だが、決められた習い事や部活にだけは行く。そして楽しんではくる。
なので、私の気持ちというのは、多分、いや確実にどうでもいい・余計なお世話なのだ。

それでも親という生き物は・・・

彼は、彼なりの向き合い方でスポーツに対して臨んでいて、確実にそれをこなしてはいる。
だから、私の出る幕というのは特になくて、声掛けすら必要もない気もする。

でも、彼を見ていてどうしても思うのだ。

もったいない!

程良い練習量で、一応ある程度は勝てるのだから、楽しむというより折角練習できる環境にいるわけなので、もっと練習したら確実に上達するだろうに・・・

なぜやらないんだ!

そう思ってしまうのだ。

やる気を出すのは本人しかできない

「なぜやらないんだ!」と思う自分は、正直言って無駄なエネルギーである。
ハッキリわかっている。

私自身がいくら「もったいない」と思っていても、本人はそれで自己満足しているので、やる必要を感じていない。

長男は、ホームスクーラーだった。
小学校1年生から4年生の最後まで、ホームスクーリングをやっていた。
それもついに飽きて、5年生になる前の春休み「飽きてきたからそろそろ学校へ行くわ」と長男自ら言い出した。

算命学で、本人の年回りの星に貫索星が回るときに学校へ行くことになって、自己確立の星の影響か・・・と驚いたものだ。

ホームスクーラーになるということは、幼稚園の頃から決めていたのだけれど、実際に小学校へ入学してから本人が決めた。アンスクーリングというカリキュラムのない方法で実践していたのだが、トライしてみるというのは、とても大変なことだった。

カリキュラムがないということの怖さと、このままで大丈夫なのだろうかという不安との闘いでもあった。

正解がない世界を生きた4年間だったのだ。

何か、決まっていることがあると、そこにしがみつきたくもなるし、安心したくなる。
そんなことが全くできない世界にいたので、とにかくやってみるしかない。

学校と喧嘩腰になったこともあるし、ホームスクールということを理解してもらえずに、不登校という位置づけにいつも入れられていて、ホームスクールに誇りを持っていた私はそのカテゴライズが嫌で仕方なかったのだが、学校側は安心しているようだったし、個人的にもそうすることで色々と面倒くさいことを回避できることもあったので、大人しく不登校児という扱いを受けていた。

公立の学校に所属していたので、担任の先生によって対応が毎年のように変わった。
とてもよく面倒を見てくれる先生もいれば、ほったらかしの先生もいて、そういうところもまた勉強になった。

新卒の担任という人もいたが、最初は本当に初々しかったのだが、学校というちょっと変わった社会の中で生活しているからか、良い意味でも悪い意味でも「先生らしく」なっていったのをみているのも勉強になった。

人間って、環境だな・・・とも思ったものだ。

タイミングを待つ

アンスクーリングでの学びというのは、とにかく熟すのを待つ感じだ。
何か余計な物を入れない、そんな感覚すらある。

自分が面白い、興味があると思ったものに対して能動的に取り組んでいくスタイルで「何もしない」というのを、どれだけ邪魔しないか、ということでもある。

だからこそ「何もしない」ことに焦りを感じるし「暇を極める」しかないのだ。
それは本人にとっても究極を体験することでもある。どれだけホームスクールの中で「暇」というセリフを聞いたことか。

「暇」「暇」「暇」「暇」

暇が極まれば、何か行動するしかなくなる。
それを今の世の中は待てない、そして何かをしていることで安心もしている。

でも対極の考え方としては、必要な時期を逃してはならないというものも存在していて、
学校のカリキュラムのように、その時期に必要なことを学ばないをいけないのではないだろうか、そのチャンスを損ねたら大変なことになるんじゃないだろうか・・・
という気持ちも同時に私の中にはあった。

いくら、ホームスクールで育ったという子どもたちの話を聞いても、それは我が家には当てはまらないのではないだろうか・・・といくら考えたことか。

そう思いながらも、彼の「何か」にヒットするように、いろんなことには触れさせようとしてきた。


図書館・博物館・美術館などの公共施設はもちろん、美味しいご飯も沢山食べに行ったり、同年代の子どもたちとの接点は必要と考えて週6で習い事に通った。
学校には週1回に夕方学校が終わってから登校して先生と話をしたり宿題の提出をしていた。
単発の講座などを見つけて参加をしたり、子どもが楽しめるイベントにも参加していた。昼間は公園で遊んだりもよくしたし、幼稚園の園庭でもたくさん遊ばせてもらった。
フリースクールもたくさん探したけれどピンとこなかったので、そのままホームスクーラーで毎日過ごしていた。

彼が中学生になってから本人に聞いた話によると、
小学校6年生までカタカナが読めなくて、友達に教えてもらっていたらしい。

家では、全く勉強を教えるということは本人が希望しない限りしてこなかったので、それもそうかと後から聞いて驚いたし、勉強をやっていなかったと言いつつ、中学校に入ってから成績は真ん中の上くらいをキープしている。

そういう経験から、結局は自分がやる気にならなければやらないというのを嫌という程感じているにも関わらず、思ってしまう、お節介。

もうお節介を手放して、自分のことだけに集中して生きていたいものである。