友人がお茶を習っていると聞いて、お稽古に体験として同席させて頂きました。
何せ本格的な茶室での茶道は初体験。
かれこれ10年程前に着物にハマっていた時に連れられて野点に行ったのが最後。
恥ずかしながら、全く茶道の世界を知らないままにこの歳まで過ごしてきてしまいました。
弓道を高校・大学と続けていましたが、それも今は昔。
”道”というものから随分と長く外れてきてしまったなぁと感じていたときに茶道のお話をいただいて心ときめきました。
久しぶりに、弓道の足袋を用意し、着物ではなくワンピースで参加させて頂きました。
まず、茶室に入る前に、蹲(つくばい)と呼ばれるもので手や身、口を清めます。
茶室は神聖な場所なのですが、この蹲で手を清めている時から緊張してきます。
そして、茶室独特の高さ2尺2寸の躙り口(にじりぐち)から入ります。
扇子を持ち、茶室に入るのですが、自分の前には閉じた状態の扇子を置いて、その後に自分の体が続きます。
扇子は結界の意味もあるそうで、自分と扇子の先と自分との世界が違う、境界線の役割なんだとか。
茶室に入ると部屋を拝見させていただくのですが、まずは掛け軸から。
すごく素敵な掛け軸だったのですが、お写真を撮影できなかったので私が描いたイラストですみません。
これは禅語だそうで「円相無一物」と読むような。
本来、人の心は円のように丸いものであり、悟りを意味し、執着を手放すという意味もあるのだとか。
仏教の考え方とも通じるところがあるそうです。
ちなみに私も仏教勉強中の身でして、実は算命学よりも長く親しんでおります。
あるようでない、ないようである、そのままで良い、あるがままを観るなど、いろいろな解釈ができるかと思います。(ものすんごく詳しい人からは、叱られるかもしれませんが・・・)
私は、掛け軸を目の前にしたときにそう感じました。
掛け軸の次は、生け花を拝見します。
茶道の生け花は、蕾のままを使うことが多いのだとか。
でも、この暑さで花が開いてしまったのと先生がおっしゃっていました。
暑すぎて花も大変だ・・・。
水引というお花は、よく使われるそうです。
とても可愛い植物でした。
そして、次にメインの釜、お茶のお道具の拝見をいたします。
釜と火を一番大切に見るのだとか。
そして、その後にお菓子・お抹茶をいただくのですが・・・。
何もかも初めて!初めて尽くしって感動を超えて全部が初めてってどう表現していいのかわからない!(本音)
もう、全てにおいて初体験尽くしで、器もお菓子も、お茶も、着物も、掛け軸もお花も、作法も、知らなさすぎて、恥ずかしくなりました。
知らないということは、合っているのか、間違っているのか、何が素晴らしいのかがわからないんです(苦笑)
これは美味しいものだ、これは美しいものだ、
そういうものを知らなければ、比べようもなく、全く何もわからないという初体験が本当に久しぶりすぎて感動を超えて泣きそうになりました。
私は美しいものを知りたいのだ。(調舒星の叫びが聞こえる・・・)
そうでなければ、おもてなしをしていただいた方のお気持ちが理解できない。
礼儀作法というものは、本当に大切なことなのだと茶道から学びました。
掛け軸も、自分の目の前にその掛け軸を描いた人がいるように拝見する、
そして、一つ一つを味わい、礼をつくす。
こういう時間が、私にはあったのだろうか。
そして、こんなに丁寧に私自身に対して対峙したことがあっただろうか。
そう感じたのです。
私を大切にするって、こういうことか!
と、直感で感じたんですね。
私を大切にする感覚とは
よく心理学とか自己啓発とかでいう、
「私を愛する」「私を大切にする」
この言葉の意味が正直、腑に落ちていなかったんです。
でも、茶道を体験してわかったことがあって、「私を愛する」っていう考え方は西洋学的だな、と。
自己愛って西洋っぽいですよね。だから自分にフィットしなかったんだな〜って思いました。
茶道で、掛け軸や生け花、お道具に敬意をはらい、大切な時間を過ごして気付いたのです。
これを自分自身に置き換えれば良いのだ、と。
礼をつくす、その裏に数々の想いが込められていて、それを丁寧に感じ取っていく。
(もちろん感じ取るための知識は必要だとめちゃくちゃ感じましたが)
その在り方、対峙の仕方、そのものを自分に対して行う。
もう、そこに尽きる!とようやく腑に落ちました。(龍高星的な学びだったな)
こういう在り方で生きていきたいなと感じました。
本当に、茶道の世界に触れて学びが多かったので(もっと書きたいことがありすぎる)和菓子や、生け花、季節のことも算命学と合わせて学んでいこうと思いました。
お茶の世界、過去に生きてきた日本人が大ブームでハマった、というのがわかる気がしました。